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2005年8月 3日 (水)

ヒロシマ 赤い呪いの森

過ちは「繰返しませぬ」....? とは、一生の十字架を背負わせるための洗脳プログラムだ!

終戦記念日を前に、また、ヒロシマの原爆慰霊碑が傷つけられたとの報道があった。

「過ちは…」の原爆慰霊碑削られる 広島、男が出頭
2005年07月27日 朝日新聞

碑文内容「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから」を巡っては、1952年の除幕式以来から論議があったようだ。主語のない「過ちは繰り返しませんから」というのは、原爆落とされた側の日本が「なんで反省?」と、どう考えても妙な感じがする。何故、わかりやすい

”過ちを繰り返させない!そして、繰り返さない!”

ではいけなかったのだろう。

何やら自虐史観のルーツを見るようでもある。
先日日曜、朝からのTBSテレビ番組で、関口ひろし、江川紹子両氏がこの事件に遺憾を唱え同調。
『己れに全く罪がない者だけ、この者(マグダラのマリア)を打て』ーを気取りイエスの真似事をしたいのか、マコトにおめでたい”勘違い博愛主義”の面々だ。

過去の論争の中でも、東京裁判の日本自衛戦争擁護で有名なパール判事の抗議が特筆。

パール判事:
「ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのが日本人でないことは明瞭である。落としたものの手はまだ清められてはいない」

これに対して碑文を考えた広島大学教養学部 雑賀忠義教授は、次のように反論している。

雑賀教授:
「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰り返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない」

その後、英文訳で主語を”We"(私たち、世界人類)とし、一件落着したかのようだ。

Let all the soul here rest in peace For We shall not repeat the evil.

しかし、これでなんで納得できるんだ? いいのか?ホントに?それで、ヒロシマ市民!
どう考えても、慰霊の精神からは程遠い!
釈迦の『毒矢の例え』って話を知らぬのか?
目の前で毒矢で倒れ苦しんでいるものがいたなら、ゴチャゴチャ頭の中で毒矢の分析せずに、まずは毒矢を抜き、痛みを和らげることが先決だろう?これじゃあ、絶対、被爆者は浮かばれないぞ!

まずは、「謝ってっくれ!」それからだよ!自己反省するのは!

数度と繰り返される今回のような事件は、大勢の人がずっと沈黙を守りつつ納得のいかぬ気持ちを抱いていることの証拠でもあるだろ。
原爆を、”人類の根源的な戦争という残酷な習い性”=”人類全体の業”とする論法は、その後、絶妙なタイミングで社会党共産党などの反核反戦運動、平和運動とも結びついてしまった。
大東亜戦争の日本の贖罪意識を刺激する側としては、こんな都合の良い解釈はないのだろう。

しかし、なんか、オカシイ、なんか変だーと思ってたら、やはり奥に潜む怪しげな思考法が見えてくる。
ハッキリ言おう、これは、

カルトの”呪い”である!

政治的平和運動の衣をまとったカルトである!

これによって、『南京』『侵略』の呪いの言葉とともに、人類最悪最大の贖罪意識を原罪として、日本人に植え付けることに成功してしまっっているのだ!

しかし、生まれ堕ちた時からの原罪を、『アーメン』『南無阿弥陀仏』『清め給え』の神仏の介在一切なく、一体どのように許しを得、原罪を贖えるというのかァ〜ッ???

考えてもみよ!
(1)前提:「人間は他人を殺す生き物である」(残虐性を内包)

(2)事象:「それ故、今回、起きた事件は我々の業に従い起きた事件であるから、被害者加害者を問わない」

(3)結果:「我々はこれを繰り返さないないように、誓おうではないか!」

結論:誓ったところで、前提を性質に持つ者が、前提を覆すことは決してできない。永遠の自己矛盾に投げ込まれるか、それを変更するには、人間を超えたものの力=神を必要とする。
では、その神とは。。。。。?

.......残念なことに、我々は”罪”をキヨメられても、”原罪”から人間を救う神を持たないー と結論せざるを得ない....

日本神道でも、業の概念のある仏教でも、人間を、神仏の性質を具有する者とみなす。我々には、”原罪”という概念がないのだ。ならば、我々は戦後ずっと、ワクチンを持たない”原罪”ウィルスに犯され、暗い森で狂気を抱えて彷徨わされていたのではないか。。。。?

”原罪”は、実にユダヤ-キリスト教的な概念である。太平洋戦争を思想的側面から見れば、信長〜秀吉時代に一度上陸しかかって水際で堰とめられた西洋的思想の捲土重来とも捕えられると思う。
さて、ではその”原罪”ウイルスに、犯された日本人の行方は。。。。。?

被爆者を人類の全ての業を背負う屠られた羊に例えるなら、我々は我々の”良心”を担保に取られていることに等しい。永遠の”贖罪”という暗い森に、封じ込められたのだ。
しかも、その暗闇から脱出しようとする試みは、”良心”を手放すこと(つまり、悪魔になること)でありし、おまけに森を取り巻く外界は、”原爆の追体験”という”恐怖”が支配している。
これでは、”原罪”という暗い森の中で、自分の影に怯えつつ自分の影を踏み続け、永遠に哀れなダンスを踊りつづけるしかないだろ。

しかし、何のことはない!
よくよく見れば、これ、”恐怖”と”贖罪意識”のセットで、人を支配するやり方で、実は、東洋のイエスを詐称する典型的なカルト宗教に見られる洗脳法と、ピッタリ同じだったりする。原罪からの救いは、神様以外に悪魔に頼むこともできるってわけだ。

カルトは、我々の自己保身という欲望に根付く、さまざまなモノを担保とする。
物欲、現世利益を担保とするラディカルなカルトと、贖罪意識、良心を担保とする深く浸潤するカルト。また、”搾取感”を担保にしたカルトが共産主義だったり、”超能力”を担保にクーデターまで興したカルト団体もあったり、担保の種類によって、闘争、集票、珍味売り、蛙飛び、奇行、集金、踊るダンスのステップも様様だ。しかも、表向きは、宗教だったり、イデオロギーの衣をまとったり、マルチ商法やセミナーの形を取っていたりと、とても紛らわしいことも確か。

だが、必ず、”森の外は恐怖”として、閉ざされた空間に閉じ込めるという、洗脳プログラムを使うのは、共通している。
これが、”悪魔が提示する救済法”=”カルト”だ。

一方、昨年、メル-ギブソン監督の『パッション』という映画があった。

キリスト最後の12時間を、聖書の記述に忠実に再現したものだ。
鑑賞前に食事はするなとの触れ込みがあるくらい(もどすから)。イエスの受難のリアルな再現に、自分の罪業の深さをも重ね見る、さながら、ホロコースト記念館や、広島の原爆資料館で我々が原爆の被爆者の悲惨さを追体験するのと同じなのだろう。

しかし、『パッション』を途中で見るのを辞めた観客は、おぞましい恐怖だけが記憶に残る。

生命力のある者は自力で吹っ切れるだろうが、そうでもなく良心に繊細なる者は、ことあるごとに悪夢にうなされるかも。自分の無意識下の、底なし沼のような原罪の蓋をあけてしまからだ。

そう言えば、昔の修行僧に、断ち切れない煩悩の苦しみの果て、視覚から来る誘惑を断つために、それこそ、自分で自分の目を潰すという自称行為を行う者もあったほどだ。
目が悪さするなら目を潰し、口が嘘をつくなら舌を裂き、評判が気になるなら耳を切り落とす。底知れぬ恐怖に捕われた者にとって、感覚全てを失っても心に襲い来る幻影との最終的は対決法は、このように己が存在を抹殺するか、救いの神を求めるか、もしくは、、、、、脳を真っ白に洗うことしかない。

つまり、、、煩悩の発生場所、心的作用を破壊すること、脳を初期化することだ。

そうして、デフォルトされた脳に、新しいプログラムを組み込めば、洗脳(brain wash)完了!
新しくインストールしたOSで、奴隷でも、戦士でも、闘争家でも、お好み次第にプログラムできる。
自分の頭で考えるという、精神的作用のオペレーションを放棄した時、やっと、苦しみから解放される。舵取りを全て他人(悪魔)に委ね、操り人形としてそれは安らぎの平和が、得られるということだろう。

『パッション』の場合は、敬虔なカソリック教徒メル-ギブソンの信仰告白の映画であり、観るなら絶対、最後まで観るべきだ。
原罪の苦しみからの解放として、どのように神の救いが働くのか、わかるだろう。ま、クリスチャンになることもあるかもしれませんが。。。。

それは映画のラストシーン、
釘を打ち十字架に架けられ苦痛のイエスがそれでも天に向かって、絞り出すような最後の祈り。

『父よ、、、彼らの罪を許したまえ。彼らは自分がしている事の意味がわからないのです。。。。』

。。。。。。ジ、ジ〜ン。。。。!!!(涙。。。。。)

この偉大なる言葉だけでも、異国のイエスさまは、個人的にmadamの神のひとりになるのだ!

断末魔の際にも、神の子として神の国を信じ、全くの無私なる心で我らの罪の許しを神に乞う。クリスチャンでもない者が言うのもなんだが、ここにイエスの”許しという救い”の本質が、全て集約されているのではないだろうかと思う。
しかし、ここで間違っちゃいけないのは、有名「汝の敵を愛せ」。無盲目に敵を許すことではないし、悪魔と手を結ぶことでもない。敵を愛すると、悪を助長させ甘やかすのは違う。羊の群れにオオカミを放つバカはいないと思う。
イエスは、ユダを追放し、またエルサレム神殿内の商人たちを神を汚す者として糾弾しているし、パリサイ派との対決、荒野での悪魔との対決もしている、神の愛には、悪を止める勇気もあるのだ。神への疑念を吹き込み、積極的に堕落を誘惑する者は、断じて許さない。
イエスの言葉は一環して、我々自身が罪にきづき、素直に神の前に膝まづき、悔い改めをすすめるのだ。

まさに”罪を憎んで人を憎まず”!よって、キリスト教精神に立っても、パール判事の言う『落としたものの手はまだ清められてはいない』とは、やはり正しいと思う。

暗い森の中でも、イエスを信じることによって、信仰の道に入り、悔い改めを重ねることによって、死後に”原罪からの解放”=”天国という森の外” 、ーというカタルシスを得るのが、キリスト教的な考え方。
これは森の外を、”地獄”=『恐怖』とし、永遠の暗黒に閉じ込めるカルトとは、対極にあることに気づかれると思う。

また、日本でも戦乱続きの鎌倉期の世の中に絶望し、この世を”穢土”、天国を”浄土”とした、浄土思想があった。この西方浄土におわすのが、イエスさまのような『阿弥陀如来』。
庶民は、戦乱続きの娑婆で生きる術として、麻薬を打つように浄土を夢見、念仏を唱えた。原罪と思えし抗いがたい現実を見つめるという点では、キリスト教と浄土信仰は、同じような構造を持つ。
余談だが、禅宗などの自力門的悟りと、浄土宗などの他力門的慈悲は、そのまま近代の、自由と平等の概念が根底にあるようで、おもしろい。
しかし、仏教の根本は、あくまで、悉有仏性(シツウブッショウ)といって性善説サイドに立ち、業と原罪は、似て非なるもの、浄土思想は仏教では異端的な思考法だ。

以上からつくづく考えると、碑文の内容は慰霊の意味を超えて、実は日本民族の精神構造の”罪の概念”のあり方を問う、けっこう根幹的な命題だったのではないかと思う、今日この頃。。。

まずは、原罪を受け入れるか、受け入れないか?
これは、イコール、性悪説か、性善説か?多神教か一神教か?かも、同時に問われている。

受け入れるなら、早急に一神教的な神を必要とする。でなければ、日本はこのままカルト国家として滅びる!
しかし、それで”救い”は得られたとしても、原罪を正当理由に闘いも是とする可能性もある。これすなわち、ユダヤ-キリスト教圏、イスラム圏の一神教圏の争いへの参入を意味することもお忘れなく。
その覚悟、ありやなしや?

原罪と見なさないなら、まずは碑文の変更を即刻、断固、要求していくべきだ。
アメリカに対し、原爆投下の人道的な意味での正式謝罪を要求する世論を作らねばならないし、自己反省として、戦犯と言われている方、靖国神社の存在の見直しも関連してくるだろう。

原罪でないなら、<戦争=悪><靖国=戦争><愛国=戦争><宗教=戦争>という刷り込みを払拭し、<戦争=自衛><靖国=愛国>とし、日本の歴史伝統文化の継続発展に努力していく姿勢を正さなければならない。
戦中〜戦後の歴史本は、今続々と当時、発禁処分だったものが発売されている。支那事変〜大東亜戦争〜太平洋戦争の昭和初期〜中期までの陰塀されていた事実を、大人こそがもう一度、しっかり勉強し直さなきゃなりません。

しかし、そもそも本来、日本神道系や仏教の性善説を精神的バックボーンを持つ日本人が、なんでこんな世にもいまわしい、人格崩壊に匹敵するような、最悪な原罪罪悪思想に染まってしまったのでしょう?

全ては、”戦争に狂奔する狂気をはらんだ日本”というイメージを全国民が持ち、戦前の日本を全否定したことから始まることは明らかだが、これには、涙をそそるほど哀れな、なんかしらの悪意が働いていたという事実がある。

戦後、意図的に仕組まれた『洗脳プログラム』があったことをご存知であろうか?
これは、戦後のGHQによる占領期における詳細な洗脳プログラムで、

『WAR GUILT INFORMATION PROGRAM』

ーと、呼ばれるもの。
これによると、恐るべきことに、我々の戦前の歴史は、真実は陰塀され、都合の良いほうに書き換えられていたのだ!
戦前〜開戦〜戦時中と、日本の正当性を訴える記録は、すべてGHQによって検閲され発禁処分とされた。
パール判事の『日本無罪論』は有名だが、真相は手っ取り早く言うと、当時のアメリカ政府にも、日本政府内にも、スパイのような共産主義者が多数いて、国境を超えて、戦後の日本に赤い呪いをかけたというところ。
アメリカを恨んではいけない。アメリカのみならず、世界に散らばった赤い魔女の手下たちが為した業なのだ。

しかし、呪いというものは、呪いだと見破った時点で、効力を失う。
まさに、パール判事の予言のようなお言葉、「〜時が熱狂と偏見をやわらげた暁に〜」「〜理性が虚偽から、その仮面をはぎ取った時〜」に、正義を計る天秤を持つ、真実の女神が微笑むのだ。

赤い魔女の呪いは、いまや融けつつある。
テレビ、新聞のマスコミ界には、確信犯的な魔女の下僕がまだまだ跋扈はしているが、恐れるには足りぬだろ。事実は事実。真実は真実。
嘘は、真実の前には、ただのゴミにしかすぎないし、イバラで覆われた暗い森にも徐々に光が刺し、そこが我ら本来の、光と緑と水の溢れる美しい土地であることに気づくだろう。

いやはや、コレって、第二の明治維新なんてもんじゃないっ!
まさしく、60年間も、岩戸にお隠れになっていた女神アマテラスさまの、第二の『天の岩戸開き』なのではないかと、感涙してしまいそうです!

思い出しましょう。
我々は、エデンの園から原罪故に追放された、アダムとイブの末裔では決してない。
黄金の稲穂が揺れる美しきこの大八島の国日本を、嬉々として喜びのうちに二人力合わせてお造りになった、ナギとナミの末裔なのだ。
本来、無原罪の、辺り一面に光が満ちあふれた、天が照らす、土地の民であったことを忘れちゃいけない!

では、しばしお隠れになっていた、洗脳ウイルスに対する抗体を身につけ、パワーアップされた新生アマテラスさま(天照大神)を呼び戻す方法とは。。。?

やはり、同じでしょうね。
『鏡』と、しめ縄と、力男と、ウズメ。

これが何を意味するか、、、、ではでは、日本神話をもう一度、ゆっくり読み直してみましょうか。

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 今年もまた8月6日がやってきました。広島をはじめ地球上の何カ所かで反核や反戦の催しが執り行われ、そして申し合わせたように、当時のB29搭乗員の生き残り達からは、この原爆使用が正当であったとの声明が発せられ、そして、同様に過半数が日本に対する核兵器使用を肯定しているといった内容のアメリカの世論調査結果が公表されています。 そんな彼らが等しく、その正当性の根拠としてあげているのが 1)核兵器使用によって本土決戦が回避され、想定されたアメリカ兵の戦死者約50万人が死なずにすんだ。 2)戦争終結...... [続きを読む]

受信: 2005年8月 8日 (月) 07時36分

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