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2005年9月

2005年9月30日 (金)

天の岩戸開きと憲法改正(2)宗教の復権

『脱無神論』『脱唯物論』

まずは、主権国家としての武力統帥権と同時に、どうしてもなさねばならぬのが、宗教心の復権であると思う。
これは憲法うんぬんではなく、国民ひとりひとりが自らの中の神聖なる部分を発見し、神仏への信仰を中心にすえた生活にシフトするということだ。

GHQが、『旧帝国軍』と『日の丸君が代(天皇への信仰)』のふたつのイメージを巧妙に直結させ、メディアと教育界が更に加担した結果、宗教=信仰心まで、日本人から奪われてしまってから久しい。
宗教と聞いただけで揶揄し、どうせだまされ金銭巻き上げられるだけとの偏見を持つ人がほとんど。反面、伝統宗教に対しては思考停止。
末法の世もとうに通りこし、毎日報道される凶悪事件にここまで来たかと、日本人種の末期を見るような気がして、マコト、嘆かわしいばかり。

わかってないのかな〜。
いくら、罰則作ってみたって、教師を免許制にしたって、ニート対策したって、警察官増やし学校にも配置したって、男女共同参画だ、子育て支援したって、すべて無駄!
法律や、隣りのオバチャンのカウンセリングでは、「何故、自殺しちゃいけないのか」「何故、人を殺してはいけないのか」それさえにも、きちんとした答えをだせないだろう。人生の究極的な悩みには、神仏の介在なしでは答えれないからだ。

何せ、天皇陛下が人間宣言されちゃったものだから、それまで『天皇教』を拠り所に生きてきた日本人が、途端に、猿以下に成り下がってしまったのも、無理はない。
現憲法での政教分離は、単なる宗教の否定となり、首相の靖国参拝が私的か公的かの愚かな質問が、未だ恥知らずのマスコミによって繰り返される有り様。人権、平等と叫んでは利権に群がる亡霊の数々。
メルトダウンする日本?炉心溶融が始まっている?
この唯物主義の権化と化した日本が、未来への指針も大義もなく迷走するのは、必然だったのかもしれない。

しかし、神々の恩恵を一身に浴びて数千年の歴史を刻んできた日本人が、
たった一回の敗戦ごときで、神さまを忘れてどうするんだ〜???

例え、
原爆の威力は、神仏の存在をも、吹っ飛ばす悪魔の破壊力だったにしろ、、、だ!

ダーウィンが人類を細胞レベルに貶め、ニーチェが神を殺し、マルクスが人間の動物としての残虐性をかき立てた。科学が神仏を奥へ奥へと迷信の中に閉じ込め、積極的に貶める悪魔の勢力にも加担する。
神を失えば、客観的思考能力が、失われるのも当然。神仏の視点を失った人間は、親の目、教師の目、世間の目というような客観的な測量点も失い、風が吹くたび、クルクル回転する、愚かな風見鶏でしかないだろう。

最近、吐き気をもよおすような妙な記事を見た。

ロンドンに「人間動物園」誕生=ヒト本来の生態探る?

動物園で「ヒト」を展示、男女8人の生態がわかる?
動物気分を体験しよう! クロアチアの動物園が新しい試み

つまり、これが、世界的にも、退化した人間種動物の、未来の行き着くところ!!!

これを見てどう感じるか、楽しい?味わいたい?イチジクの葉っぱでアソコ隠して、アダムとイブごっこ!
ま、、、、、我々の動物退化度の目安になるかもしれない。
そういえば、動物占いってのも、一時期流行ったな。。。。。

さらにこんなのもある。
迷子防止と無責任な飼い主向けの対策とは云え、そのうち全ての犬猫のマイクロチップ装着まで法制化されそ。日本でも近いうちに性犯罪再犯予防に、テロ予防に人間に適応される日も近いのだろう。
さらに、全国民に適用されたら、誘拐防止に、老人の徘徊防止に、青少年の犯罪防止に、オヤジの援交防止に、妻の不倫防止に、政治家の汚職防止にも、大活躍するに違いない。

カルトがかってると噂のブッシュ政権のアメリカでは、最近、人類創造の秘密を 『インテリジェント デザイン』 という言葉を用いて、進化論の代替にしようという動きがあるという。
神という言葉を用いず、「知的生命体」の意図に基づいて人間が設計されたというのだが、とても政治臭がぷんぷん。支持母体の『キリスト教原理主義』も、これがキリスト教?といえるほど、イヤ〜な臭いがする。
アメーバの偶然の慣れの果てが人間だとする進化論と、何者かが設計したとするID理論。

『や、め、て、くれっっっ!』

どちらも、人間を肉体に閉じ込めた唯物論にすぎないではないか!

旧約『創世記』では、粘土をこねるように神の姿に似たヒトが創造されたとある。そして創造主の息吹を吹き込まれ、生きた人間アダム(土)となった。
「太初、神は、ロゴスであり言葉であった」ーとは、人間はロゴスを吹き込まれた存在=霊であるということであり、イエスも目には見えない神の国をひたすら説いて、天に召されたのだ。

西洋でも霊肉二元論が、本来、主流であったのだ。

しかも、霊は永遠不滅である。
それは我々東洋人が、四季の移り変わり、生まれ変わりの思想「輪廻」、循環の思想「色即是空 空即是色」を通して、直感的に感得できる真理だった。ユダヤ=キリスト教以前のエジプト〜ギリシャでも、多神教世界観が常であり、輪廻しながら転生するというのが常識だったのだ。

この人間の定義

「転生し再受肉する、永遠に思考し続けるエネルギー体(霊魂)」

を受け入れるか否かによって、我々は天と地との差のある人生を送ることになるだろう。

「ヒトは、パンのみに生きるにあらず」「自己保存、生存だけが目的だけでない」

〜それを知るだけで、神々の門の前に佇めるからだ。

ならば、「勝ち負け」にこだわることもなかろう。
一回ずつのゴールをあの世に設定すれば、この世でいくら成功したかに見える勝ち組でも、死後、地獄行きならオオマケであり、逆もこれまた、真である。
ーでなければ、本来、損得勘定の利己的な動物が、他人のために命を捧げたり、殉教などの行為をするわけがないだろ。そして、一番幸せなパターンは、あの世でも勝者になるように、この世の勝者になることだ。それが、信仰を持ち、成功をも目指して賢く生きることではないのか。

過去、古今東西、偉人が哲学者が宗教家が、神仏を探ることによって「人間かくあるべし」と説いてきた。彼らの主張は、一見異なるように見えても一環している。肉の幸福よりも、まず、霊の幸福度を優先した。
万が一、どちらかの選択を迫られても、彼らは迷わず、後者を選んだろう。つまり、霊主肉従だ。 それは、神仏を究極の人間の理想とし、人間がいかに崇高なる精神を磨くかという、証明に尽きるのだ。

決して、『How to サクセス』や『お金持ちになる法』『長生きする法」『きれいになるプチ整形のススメ』では、なかった。また、『こうすれば、気持ちよくなる』という、五感に基づく刹那な満足でもなかった。
ファウスト博士が、メフィストフェレスとの約束を忘れ、

『時よ、止まれ!おまえは美しい!』

ーと叫んだ、あの霊の充足感をこそ、至福と呼んだのだ。

また、健全なる肉体には健全なる精神が宿るように、健全なる精神が健全なる肉体を造るのだ。肉と霊は相互に影響しあうだろうが、今の世の中、ア、マ、リ、ニ、モ、肉に偏重し、霊なる本質を忘れて転倒している。
。。。そう思えば、そんな動物と化した人間が、檻で飼われるのも、仕方ないのかもしれないが。

神仏が、まだまだ世の中の表にあった頃、為政者は、実にさまざまな天国と地獄の話で、民を教化した。
監視や檻を使わずとも、天国に通じる道徳が民を向上に導き、地獄の恐怖は、治安や犯罪抑止に役立ってきたのだ。何故なら、民は自身に戒めという柵を設け、他人を害する個人の自由の暴走を自ら制御してきたのだ。

反面、宗教は権威を持つ分、政治という権力に利用され、対立し、寄り添い、相互利用仕合う可能性も含む。それがもし寛容性を持たぬカルトだった場合、最悪!どこぞの共産国家と同じ運命を辿る。
しかし、かって聖徳太子は、『17条の憲法』で、仏教への三宝帰依の精神にのっとり、『篤く三宝を敬いて、和を持って貴しと為す』と、たからかに謳ったのだ。
政と教が必ずしも、分離しなければならない理由はないし、分離していても、神仏を否定し地獄天国を否定する理由には、決してならない。あくまで、政教分離とは、特定宗教を国家がひいきしないようにーと、ただそれだけの理由であろう。

人は、この世のシステム的には他人に支配されても、心=精神は、決して誰にも支配されない。自分の心を管理統治する支配権は、自分自身しか持たない。
逆境を災難と見て、嘆いて暮らすか、チャンスと捕え行動するかは、その結果はあなた次第なのだ。だからこそ、自分の人生に対して自己責任が問われるのではないか。
己れの精神の統治に失敗し、愚痴、不平不満、恨みを抱き、結果を責任転嫁し不幸を嘆くのは、風の赴くままの風見鶏状態。故に共産主義という唯物主義をカルトだというのだ。
彼らは、不幸不平等の原因を他に求め、神を呪い否定することによって、他との永遠の闘争という復讐にかられる『阿修羅地獄』に生息する、アワレな生き物だろう。

そう、つらつら考えると、保守陣営の方々が常々口にされる日本の「伝統」「文化」「歴史」とは、本質において

「神々への信仰」を持つ日本人への回帰

に、尽きるのではないかと思う。

神々を愛するが故に自然を愛で、神々を讃えるために祭りをなし、神々に捧げるために芸能を興じた。また、更に述べるなら、仏とともに精進し、仏の慈悲にすがり、仏と交流するために精神統一の場と時を設けた。

村のあちこちには寺があり、お社もある。そこかしこの辻には、お地蔵さんが我らを見守り、我らは合掌し毎日のように供物を捧げた。

夕方、山のお寺の鐘が時を告げ、仲間と手をつないで、家族と憩う家に戻る。
そんな、日本土着の神々と、外来の仏や菩薩を融合し、

『敬天愛人』

、 〜神を敬い目標とし、神が民を愛するように、人を愛する〜

信心深い民族として見事な文化と歴史を綴ってきたのが、日本だったのではないか?

現在、正月とお盆くらいはなんとなく漫然と宗教的行事らしき行動はしている人がほとんどであろう。また、愛国心を自負される方なら、靖国神社の参拝も頻繁になさっているかもしれない。
だが、できるなら、もっともっと神仏と対話する時間を積極的に、日常に取り入れられては、いかがかと、オバサンは思うのだ。
食前食後の合掌でもいい。食に対して聖なる意味を見いだし、毎朝、就寝前の祈りを捧げる。対象は、天照さまでも、故人の親族の写真でも、仏像でもいい。
神や仏と向き合う、沈黙の聖なる時間を日常の中に、どんどん見つけていくと良いと思う。

神仏についてもっと知りたくなったら、古典でも解説本でも、いっぱい学ぶことができる。有名な「般若心経」ひとつでも、感覚と精神の関係、精神作用の分析、物質と『空』なる実態との関係を否定の否定、そのまた否定の否定を積み重ね、弁証法的に『空』なる実態に収斂し霊の本質に迫る、その思想、般若(パーニャ)の智慧の深さには、きっと圧倒されると思う。
また、仏教、日本神道以外に、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などを知れば、世界のいろんな民族を理解する共通言語となるのではないかと思う。
そうやって、我らは、我らの神々を、持ち前の柔軟性と寛容さで、過去に学び、良いものはトツ国からも、どんどん取り入れて、まだ見ぬ新生日本の神を、昔の仏師の如く、イメージの中で彫り進めていきたい。

ーで、提案!
世は新自由主義だ、民営化だ、自由競争だというなら、ひとつ、それぞれの宗教を公けの場に並べ、どれが一番人間を幸福に導くか、競わせてみせればどうだろうかと、思うのだが。
「宗教=コワイ!アヤシゲ〜!」という、パブロフの犬の如く条件反射で無神論者に走るだけじゃ、いつまでたっても、呪いが解けない。アメリカでは、テレビ伝道師なるものが、しょっちゅう画面でパフォーマンスしているし、有名人が嬉々として、自らの信仰告白をしている。明け方の教育テレビなどで隠れるように地味〜に、「心と宗教」なんてのやってないで、ちゃんとした時間帯の番組で各宗教指導者が出演し、毎週毎週、教義を討論比較するなんてのも楽しいんじゃないかと、思う。
中には、カルトまじない宗教もあれば、霊能力超能力を売り物にするものもあろう。念仏宗教もあれば、体育会系もあるかもしれない。CSなんかで、宗教チャンネルあってもいいと思うし、チャンネル桜のように独自のチャンネル持ってもいいだろう。
アヤシゲな自称霊能力者を出したり、ズバリ、不幸の予言なんかやって、人々をますます愚民に駆り立てるよりは、ずっと有意義だろう。 大事なのは、裏に追いやろうとするから、怪しげな団体ばかり跋扈するんであって、陽の下にさらして教義の優劣競わせればいい。公けの場で、それこそ均等に布教の場を与えてやればいい。おかしなものは、きっと正視に堪えないだろうし、選挙の人気投票じゃないから、エンターティメントに走れば走るほど、偽物だとも判明するだろう。

今年の初夏、ヨハネ=パウロ2世の危篤に際して、何十万という信者がヨーロッパ中からバチカンに馳せ参じた。信者の姿を数日にわたってCNNやBBCで放映され、まるで天幕を揺り動かすほどに轟かした。イエスさまの昇天の日もこんな感じだったのかな〜と、想像を巡らしていたら、十数年前の昭和天皇が崩御された日と、大喪の礼を思い出した。

美しいと思った。ひとびとが、自分の欲得を脱ぎ去り、相手方の無事や幸運を祈り、感謝を捧げる姿は。ひとびとの心が聖なる念いで連なり、ひとつになって、見事なハーモニーをなすさまは。。。

もしかしたら、人間の人間たる、ひとびとが神々に示しうる、最も高貴な、最も偉大な、最も崇高な捧げものなのではなかろうかと、思った。

さて、今の猿化した日本人に対して、どの神々に救済力があるのか、ちゃんとした人間の進化に導けれるのか、是非、見てみたいものである。

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2005年9月25日 (日)

天の岩戸開きと憲法改正(1)

突然の嵐と雷雨が襲った911の東京圏、日本も、テロか巨大ハリケーンに襲われたかのようだっだ。
雷の轟きが、悲鳴のようにも聞こえた。
翌日、天下分け目の戦さの後、自民圧勝とともの晴天、ガラっと違う空気が流れていることに驚いた。

日本は十数年の抵抗の末、見事、受胎に成功したようだ。日本的という云われるマイナスの情緒のDNAを切り捨て、シナ大陸からの華夷秩序への誘惑も断ち切り、合理性効率性を重きを置く、アングロサクソン的DNAを受け入れたのだろう。

何か国が、マルゴト、異なる相にシフトしたようにも感じる。あらゆる関係に生じた緊張感。
我々がどんなに過去の日本の幻にしがみつこうとしても、この国という母胎の中では、新しい日本が着実に脈打ち始めているようだ。
「改革を止めるな」の大号令の傍で、先日、護憲派代表の後藤田氏が亡くなられたのも象徴的だ。自民党念願の改憲、もしくは新憲法制定実現に向けても、確実にゆっくり歩みが始まるのだろう。

私が尊敬する片岡鉄哉先生は、ここ数年の出来事を日本が近代国家として新生した頃の、明治維新に重ねてよく語られていた。
黒船の来航が、十数年来の構造改革という、一連のアメリカからの改革圧力や中国の台頭に相当、そして雌雄を決した鳥羽伏見の戦いが、水面下で行われた旧経世会はずしといったところ。
当時の日本も荒波逆巻く国際世界での生き残りを賭けて、このようにある意味力づくで、維新の志士たちは、近代国家を築いていったのか。挙党一致体制の小泉自民党に、その熱き血潮を垣間見たような気がする。

反面、日本が日本でなくなるという悲観的な意見も多いが、決してそうは思わない。
日本人の真の美徳DNAに、合理性と効率性を加味すればいいだけだし、外海の冷たさに震えてばかりいないで、同じ土俵でも互角以上に闘えるケンカのテクニックを身につけていけばいいんだろ。
また、余りにも楽観的な、馬鹿とも疑うお人良しさの代わりに、北鮮なみの狡猾さという智慧をも加味し、現実的な視点に立って、高次方程式を解く訓練をすればいいだけ。

例え、世界に嫌われるほどに国益を優先して、何が悪いのかと思う。
国益は我々国民の利益だ。我々の利益が、他の国々への利益に循環するシステムがあればいいだけ。
他の木々の日光が遮断するのを怖れていては、決して大木にはなれない。大木の使命を果たすには、ある程度の非情さも必要だ。賭博が世界のスタンダードであるなら、日本も賭博師としての腕を磨くのが先決なのだろう。

倹約、質素、清貧も、日本的美徳のひとつだったが、無欲と貧乏は違う。金持ちが天国に入れないという呪縛からも、そろそろ解き放されるべきだろう。
豊かになることは罪ではない、善である。貧困こそ悪であり、豊かさを目指すことによって消失する悪は、山ほどある。物質的豊かさと、精神的豊かさを比例させてこそ、真の成功者と言えるのだろう。

注目の広島6区の「金ですべて買える」と豪語していたあのキラワレ青年社長も、なんだか落選後、彼も彼なりに成長したような、ちょっとすがすがしく感じたのは私だけだろうか。
亀井氏の「金がすべてではない」の当たり前すぎる演説にうなづく老人たちに、妙な貧乏肯定の屈折した感情を感じた。
また、得票数の比率を云々と分析し、これまた負けたことの自慰行為に走った落選者よりも、「勝たねば意味がない」と言い放った青年社長の方が、いさぎよく見えた。
彼のどん欲さが本物のどん欲さにまで昇華し、人心掌握術まで研究するに至るなら、ひょっとしたらおもしろい政治家になる日が来るかもしれない、、、なんて密かに思ったりした。

ミモレット解散の真の狙いが、実は、郵政民営化を隠れ蓑にした国家の存亡を賭けた、「新生日本」のための大勝負だったのではないかと思う。
ーでなければ、いくら変人狂人と揶揄されても「殺されてもいいー!」と言い放った鬼気迫る小泉首相のオーラと、熱狂した有権者、しかも歴史的な自民圧勝という想像を上回る結果には、どう分析したって、なかなか適切な答えが見つからない。
実際、倒閣、政権転倒まがいの気配が国外勢力とつるんであったようだし、選挙中に近海で展開された中国軍艦の威嚇は、明らかな内政干渉だろう。我が国は、我々には明かされていないだけで、元寇に匹敵するくらいの国難に遭遇していたのかもしれない。
しかし、なんかしらの日本を救おうとなさった神々の御意思であろうか、今回も神風の突風が吹いたとしか思えない。
そう、誰もが予期せぬ自民の圧勝は、これを機に新生日本の骨格作り、つまり、具体的には税制改革と憲法改正の二つを為せとの、神々のご意志なのではないかと、つくづく思うのだ。

そう、我々は、今まさに、ふたたびの天の岩戸が開く瞬間に立ち会っているのではないか。。。?

日本が敗戦を受け入れた後60年もの間、天照さまは、高天原の岩戸にお籠りになってしまっていた。
世は乱れ、人心は左右ちりぢり、しかも絶えず周囲からの脅威に脅かされ、まるで沈みゆく泥舟のよう。

しかし、ある日、周囲のトツ国の反日むき出しの行動に、忘れていたものを思い出すかのように多くの人々が、危機に瀕した自分たちの日本という国家の枠を意識し始めた。
そしたら、まるで洗脳が解けるように、靖国神社の持つ意味を悟るようになったのだ。

選挙のお祭りのような馬鹿騒ぎ。しかし、老若男女、マスコミがなんと評しようが、こんなに多くの人が政治に関心を持ち、こぞってそれなりに日本のあり方に一票を投じようと、行動したことは事実だ。

さて、似たようなシーンが、確か日本神話の中にもあった。

個人的に信仰を持つ私は、良き事悪しき事、すべての結果に尋常ならざる存在=神仏の意思を鑑みないわけにはいかない。以下に謹んで、かなりの思い込みと希望的推測を交えて、神仏の意図を忖度してみたいと思う。

天の岩戸の前で、神々は集い、知恵者思金(オモイカネ)は、”天照さま復活プロジェクト”を講じた。
招来のための必須アイテムは、まずは、三種の神器のうちのふたつである。それは、汚れなき真心を映す鏡=『八咫鏡』と、人心調和を意味する勾玉=『八尺の勾玉』であった。

選挙中、争点にしないと公言された靖国神社。8月15日には、なんと今年は20万を超える人々が集った。そこで、人々が捧げたのは、過去から今日まで日本国を守ってくださった英霊の方々への感謝と慰霊。その”まことの心”は、磨かれた鏡のように一点の曇りもなく、皆の心はひとつひとつが勾玉となって、一本の糸に束ねられた。
古えの勾玉とも結ばれた見事な珠飾りは、時空を超えて、天照さまに捧げられた。

更に神話の世界では、芸能の起源ともなった、天宇受売(アマノウズメ)サマがストリップまがいの踊りを献上して、民衆を狂喜乱舞させ、天照さまの関心を惹こうとするシーンがある。
腹を抱えた豪快な笑いと拍手は、邪気を払うに有効だ。
ときを告げる長鳴マスコミ鳥も、「改革!」「改革!」と、囃し立て祭りを盛り上げた。

そう、劇場型選挙と呼ばれた今回の出し物は、まさに日本国民総出演で、高天原どころか、世界の国々の神々をも引き寄せた一大ショーとなった。
ーとすれば、”くのいち”とか”おんな刺客”とか騒がれた女性候補たちは、アメノウズメ=ダンサーズといったところか。。。。?

故に、憲法改正も射程における足がかりを結果として自民党にお与えになったのは、やはり、天意が働いたと考える方が素直である。また、それが天意に応えられない場合は、即、神は異なる天の配材を施されるだろう。

ーと、考えれば小泉首相の役柄は、作戦を練った思金(オモイカネ)か、もしくは、岩戸を力づくでこじあけ天照さまを呼ぶ”田力男(タヂカラオ)”か?

9条の改正は、三種の神器のひとつ、奪われて久しい”草薙の剣”(天叢の剣)の奪還を意味するだろう。
そもそも天照さまがお隠れになったのは、弟の素戔嗚尊(スサノオノミコト)の乱暴が原因だった。
”草薙の剣”は、後にスサノオから、和解のために天照さまに献上されたもので、ヤマタノオロチの退治、ヤマトタケルの物語で知られるように、邪鬼と闘う武器であり、燎腹から日本を守る軍神的役割を果たしていると言っていいだろう。神々にも、邪悪と戦う軍隊は当然ある。やはり、”まこと”と”仲良し”だけでは、生きていけないのだ。

また、岩戸からお顔を覗かせた天照さまを完全に日本に呼び戻すには、もうひとつ、”しめ縄”という小道具も、必要だ。これは、何を意味するか?

しめ縄を張り巡らせた場所は、邪気を払う結界を意味し、神の宮、聖域を示す。
そして、政りごとは、祭政一致、本来、神を祀り、祭司を行うことだった。
巨大与党といわれる勢力から、また、政権という政りごとの場から、一刻も早く邪を追い出し、聖なる政界再編を望むところだ。

では、天照さまが今回お戻りになる”中つ国”新生日本とは、どのような性格、体躯を持つものであろうか。

これは、”やまと”と、アジアデビューを果たした”日出る処の国日本”と、西欧デビューを果たした”大日本帝国”と、今のアメリカの庇護下での”日本”の神話過程を分析すると、何かしらの天意を伺い知ることができそうだ。

剣を得、庇護を離れ、再び本格的世界デビューを果たそうと試みる”新生日本”が、どのようであるべきか、私なりに、新しい神話のキャラクターを考えてみたいと思う。

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